昭和50年8月28日 朝の御理解
中村良一
御理解 第50節
「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
ひとりでに物ができるようなおかげを頂きたい。それには、地が肥えておらなければならぬ。もう、二十七八年も前の話ですけれども、ある教会に、参らせていただいたら、先生が、裏でお茶でもあげたいからと言われるので、裏でお茶をよばれておりました。その奥様という方も、一緒に見えて、まぁ、色々、信心の四方山話でございました。そん時に、その、奥様が言われるのに、お子様が、もう医者に見放されるというような病気をなさったんです。そん時にはもう、自分ながらも、あんな信心が良う出来たと思うような修行もさせて貰うたし、信心もさせて頂いたが、もう、その後というものは、いよいよの時には、あの時の事を思うたら、おかげが頂けると思うとるという意味のお話をなさいました。ね。それで、私が、その、「奥様、そん時はそん時で、そういう一生懸命の信心をなさって、おかげを受けられたんでしょうけれども、もう、今度また、同じような事があったからというて、また、同じ信心じゃ、おかげ頂けんと思いますよ」と言うたら、横へ先生がおられましてからね、「はぁ、大坪さん、貴方のいうとがほんなこつ」ち言うてから、言われたことがあるです。ね。どんなにみんな、一生懸命の信心をさせて頂いて、おかげを受けたからというて、それが、いうならば、根肥しにはならないということ。そういう信心は。一つのね、おかげと言ったようなものじゃない、一つの何ち言うですか、あの、一遍おかげを受けたらですね。その次には、おかげの受けられないような、一つのジンクスのようなものがあるんです。ね。ですから、それを、突き破るといったような信心がなされなければならんのですから、その信心では、もう駄目なんです。ね。
例えば、あの、流行歌手なんかが、一つのヒットを出しますね。もう、なかなか、次のヒットを得るということは、大変難しいという事です。そのためには、一つの何かを、壁を突き破るようなね、精進をせんことには、次のヒットは出ないという事です。道理は同じです。まぁ、本当にあん時には、どうでもこうでも、おかげ受けんならん事があって、もうそれこそ、一生懸命で信心をした。一家中のもので、おすがりをさせて頂いておかげを頂いた。だから、今度、どういうことがあっても、あん時の事を思うたらね。あん時の信心の、一つのこつというようなものを覚えとるから、といったようなことでは、もうおかげは受けられんです。もう、次にはね、もう、次の、さらな信心が出来ておらなければ、おかげにならんのです。それを突き破るという事です。ね。だから、願って、すがって、一生懸命にというのは、そういうようなものであって、それは、大して、私は、信心の根肥しにはならないと思うです。信心の根肥し、地が肥えておればということは、ね。心が肥えておればということなんです。ね。心が豊かに肥えておれば、ひとりでに物が出来るように、願わんでも、頼まんでも、神様がおかげを下さると言う信心をとらなければならないということが分かります。いわゆる、おかげも頂かんならんけれども、ね。いうなら、信心を頂くということが、芯にならなければ駄目だという事です。それにはね、心が豊かになる稽古をせにゃいかん。
昨日、私が、お取次ぎをさせていただいた、二つのことをきいていただいて、そこ辺をわかって頂きたいと思う。息子さんも熱心に、以前は参ってきよったですけれども、最近、何か、信心がぐずぐずしとる。言えば言うほど、何とかかんとか言うて参らん。ね。しかも、おかげを受けとうて受けねばならん事があるのに、まぁ、息子がぐずぐずしておるからと、こう言うのです。ね。それでもう、あの手この手で、そのお母さんが、その息子にお参りをするように言うけれども、効果がない。そしたら、あの神様からね、私がお知らせを頂いたのが、白い襷をこう掛けてね。えー何て言うですかね。あの剣道の試合をする時のように、小さい、このくらいばかりの刀を持って、この、相手のね、こう隙を狙っておるというようなところを頂くんです。いわゆる、白襷掛けてね、そして、その相手に、向かう、相手に隙があったら打ち込んでいこうといったような、その状態のところを頂くのです。それで私は、そのお母さんに申しました。「あーたが、がたがた言うけんでそりゃ、かえって、息子は参らんとばい」ち言うたです。こういう時に、私はね、我情我欲を離れてとこう仰る。ね。我情我欲を離れませんとね、真の道が分からんです。真の道が分かるということはです。本当にこの、神徳の中に生かされてあるというほどしのおかげが受けられるのです。なるほど、御神徳の中に浸っておるんだなぁ、神徳の中にあるんだなぁという実感です。それは、自分のね、我情があったり、我欲があったりしたんでは、その神徳の中にあってもです。おかげをおかげと実感しきらんです。ね。いわゆる、我情ということはね。ほんなら、子供にね、あぁあって欲しい、こうしてくれると良いけれどもと、こう思う。これは我情です。それが、つい言葉になるわけですね。「もう、あんたばっかりは、そげな事でどうするの」あぁしろとか、こうしろとか言う。その自分の我情を、言葉に出していうておるのですから、いよいよいかんのです。
まぁ、ここでは、黙って治めるという事が言われるんですけれども、黙って治めるという事も、非常にこれは、素晴らしいおかげが頂かれるです。黙って放任するのじゃない。神様へおすがりをして言わんのです。いや、言うだけマイナスになるです。ね。けども、自分の心が持てんもんだから、見るに、言うなら、見かねるというか、その、目に余るような、その態度を、息子が取るもんだから、言わにゃおれなくなってくる。もう感情が出来るから、それじゃ、息子も言う事を聞かん、自分自身も、あぁ、言わにゃ良かったという結果しか生まれん。で、そういう時に、言いたいけれども、ぐっとこらえて、生神金光大神様と、神様に心を向けて行きますと、言うなら、黙って治まるというか、ね。治まるおかげになってくるですけれども。これより、もう一つ向こうにね、それを、あぁあってくれると良いけれどもと、思う心を捨てるのです。これが、我情を捨てた姿です。これは素晴らしいです。そこに、最近、合楽で言われる心行があるのです。心行とは、心の行です。ね。目に余る息子達の姿に、目に余るようなことがある。それを、ぐっと言わんで済むことも有難いけれども、それを、もう一つ、そこん所を、心行を持って、はぁ、これが我情だ、ね。自分の思いだと。あぁあると良いけれどもと言うのも我情なら、あぁあって欲しいというのも、もっと我情です。自分を中心にしてるからです。ね。自分を中心にしてです。あぁあってくれると良いけれども。例えば、嫁が、まちっとこうしてくれると良いけれども。息子が、まちっと頑張ってくれると良いけれども、ね。それは、何時も、不平不足の元です。おかげにならんです。だから、そこを心行で、そういうね、思いが起こりますよ、やはり。けれども、それを、あ、ここんところがです、あぁあって欲しいの、あぁあってくれると良いけれどもと言うような思いを捨ててです。ね。無心の状態というですかね。そこに、一生懸命取り組むことが心行です。不思議です、もう、こんな楽なことはないです。ね。あぁあって欲しい。こうしてくれると良いけれどもと、と言う思いを捨てるとです、ね。実に楽です。それが、我情を捨てた姿ですから、はぁ、本当に神様の御神徳の中にあるということは、こういう事だろうかと言うほどしのおかげが受けられるです。ね。それが、心が肥えていくのです。心が豊かになってゆくのです。ね。だから、私は、とかくに、信心は地を肥やせということは、とかく信心は、心を肥やせという事。ほんなら、どんなにして肥やすかと言うとです。今、自分の我情が出る、我欲が出る、ね。それを打ち払う心での、一つの闘い。そして、それに打ち勝っていく修行を、心行であると同時に、それが、いよいよ、心が豊かになっていく、言うなら、地が肥えていく修行だと思います。ね。そういう心行を続けさせて頂く時にです。おかげは一人でに頂けれる。一人でに物が出来るようなおかげにもなってくるのです。
これもやっぱり、昨日、お取次ぎさせてもらった人間関係なんです。もう、私は、話を聞かせて頂いてから、本当に、人間的に言うなら、あの、「はぁ、どうしたこっじゃろうかの」と、こう言いたいような問題にあるんです。あぁ、昨日一昨日でした。あぁ、お繰り合わせを頂いてね。けれども、ここんところを一つ、信心でおかげを頂いていかにゃならん。その方は、色々神様にお願いをすると、お知らせを頂くんです、何時もお夢で。だからね、自分で、ここんところを切り抜けるためには、神様、どういう心の状態になったら良いでしょうか。どういう心の思い方をしたなら良いのでしょうか。「私もお願いしとくけん、あんたもお願いして、神様から、直に頂かんの」ち、私が、言うとりました。それで、昨日お礼に出てきてから、もう、それこそ、涙ながらに、お礼のお届けがありました。そらまぁ、問題は、非常に難しい問題でした。難しい問題と言うよりも、もう本当に、腹に据えかねるという、そらほんなごて、腹に据えかねるという問題でした。ね。苦しんでるんです。腹に据えかねるのです。腹が立つのです。情けないです。けれども、それがしこ信心いただいとりますから、お取次ぎを頂いて。ところが、昨日の朝、お夢を頂いておる。私があの、海外旅行に行こうと思うて、飛行場に行っとるち言うんです。そして、飛行機に乗る時間が、ちょっとあるから、レストランに寄って、素晴らしいおご馳走でご飯を頂いておるところを頂いたち言うた。皆さん、分かるでしょうか。ね。そんな素晴らしいお知らせを頂いた。海外旅行ということは、今の自分の心が、もう一歩飛躍しなければいけないというのです。こういう時が信心が、一段上がれる時だと言う時です、そういう時ほど。ね。それを、私共は、どうしたならば、あぁいう事を言うであろうか、あぁいう事をするであろうかと、と言うて、相手を恨んだり、ね。腹が立ったりするようなこと。そういう時ほど、一段と信心を進めるときなんです。だから、一段と心を、神様が飛躍させようと言ってござる時だと思うたと、こう言うのです。ね。
まぁいっちょうあるばいというて、昨日、話したことでした。あんたが、飛行機に、もう乗る前にね、レストランでご飯を頂いておる。おご馳走を頂いておるということが、もう、すでにその、飛躍しようと思う、思うた途端に、まだ、飛行機にも乗らん先に、ね。あんたは、ままになるおかげが受けられるということだという事です。ね。飛行機に乗る前に、もう、レストランでままになっておるということですから。私共は、そういう、いよいよ、自分の心を豊かにさせて頂けれるチャンスを頂いておるのをです、ね。それを、自分の心のなかの悩みにしたり、悔やみにしたり、または、腹立ちにしたり、いらいらにしたりしたんでは、心は何時までたっても、ね。心は、何時までたっても肥えませんです。いうならば、素晴らしい、それは肥しになる材料なんです。辛い思いをするとか、腹が立つとか。なるほどそれを、人間的に聞くなら、それはちょいと、条件に及ばんな。あんたもそりゃ、本当に腹が立とうというところなんですけれども、これを信心で頂きますとね。それは、いよいよ、それこそが、心を肥やす肥料だと言う事なんです。ね。お徳を受けるということは、ね。ひとりでに物が出来るほどしのおかげになってくる訳でしょうけれども、御徳を受けるチャンスなんです。心を豊かに肥やすチャンスなんです。それは、心の根肥しなんです。それを、私共が、そういう根肥しを掛けようともしない、使おうともしないで、ただ、一生懸命おすがりして、おかげをいただきますようにと言う願いだけでは、ね。いわゆる、心は肥えません。どんなに素晴らしい体験を頂いて、素晴らしい信心をさせて頂いて、もし、おかげは受けてもです。もう、その次には、その信心では、おかげは受けられん。あん時は、あげな修行しておったげな。難しいおかげも頂いたんだから、何時今度、どういうことがあっても、また、ひと頑張り、頑張りさえすりゃ、おかげが頂けれるという訳には行かない。そういう一つの、ジンクスのようなものがあるんだと、おかげにも。ね。ですから、そういう信心では、そこをもう一つ突き抜けた信心をしなければです。ね。過去に、あぁいう信心でおかげを頂いたならば、それとは、もっと工夫をこらした、もっと垢抜けした信心にならなければ、おかげは受けられない。これはどこまでもおかげの世界。ね。けれども、地を肥やすということ。心を肥やすということ。ひとりでに物ができるほどしのおかげ。願わんでも頼まんでも、神様がおかげを下さるようなおかげを頂くためには、心を肥やしておかなければいけないという事。ね。
この頃、息子が、どうも信心が、ぐずぐずしとる。ね。仕事もおろそかにしておる。それが目に余ってたまらん。ね。お参りして帰ってからは、まぁ今日はこげな御理解じゃったというて、いうて聞かせるのは良いけれども。まるきりその、頂いてきた御教えを、息子を、責め道具のようにするもんだから、息子が、かえって言うことを聞かん。教えは、決して責め道具じゃない。自分自身の心を豊にする事のためのものなんだ。ね。そこでです、そういう、ほんなら、っ息子が言うことを聞かん。あぁあってくれれば良いのに、ね。こうしてくれると良いけれどもという思いを捨てるということが、我情を取る、自分の思いを捨てる事なんです。だから、捨てることに、簡単に捨てられない。ね。けれども、これが根肥しだと、心の中に、あれこれ練らせて頂いてまいりますならばです。ね。おかげがいただける。お母さんが、ガチャガチャ言うから、返って、息子はもう、ね。真剣を持って、白襷を掛けて、本気でおかげを頂きたい。それの、自分でチャンスを願っているときなんです。ね。いうならば、この真剣がもちっと長い刀に持ち変えられた時に、もう、親以上、親が思うておる以上の真剣さを持って、その問題に取り組むことの出来る時に、ガチャガチャ言うもんだから、ね。かえって、そのガチャガチャ言うのが、息子の心に触っておるといったような事が幾らもありゃせんでしょうか。私共の生活の上にも。ね。
こらまぁ、いうならば、あの、勉強のことが、一番そうですね。もう、子供が勉強しません。もう顔さえ見りゃ、「あんた、今日は勉強したの」ち。「学校から帰って、あんたもう勉強したの」ち。「はぁ、勉強しなさい」もう、かかり付きまとうて言う人があります。ね。そういうことでは、勉強が、本当に、例え形はしても、本当に実が要りません。そこで、心から子供が、勉強するような心になるように、祈る事と願う事です。ね。それよりもっと、素晴らしいことは、そういうことは、問題ではないと、我情我欲を捨てる心の取り組みをする事です。いわゆる、心行なんです。そこには、親が思うとった以上の、言うなら勉強をするように、子供がなるでしょう。神様が、直接、働きかけて下さるです。ね。とかくに信心は地を肥やせ。とにかく、信心させて頂くなら、先ず、自分の心を肥やさなければならない。しかも、豊かに、大きく、ね。
一反の田から、十俵の、言うなら、収穫があるとするなら、ね。一町の田地をもっておる人ならば、百俵の、言うなら、お米が取れる道理でしょう。小さい、ね。心よりも、言うなら、広い心になったほうが、沢山のおかげが頂かれる道理です。ね。だから、こと心に持てんごたる時には、さぁ、大きくなれ、大きくなれ、今、地形が、一反づつでん、例えば、増えていきよる時と思うたらです。お礼が言えれることを、心に、いらいら、ジガジガする。これでは、心行も出来ん、おかげも受けられない。ね。そういう生き方、ね。一反が二反になりよる時だと、例えば、思わせていただいたら、それが根肥しであり、それが、おかげの場と言うものが、広まっていきよる時である。または、心が肥えていっておる時である。心を肥やすと言うことちゃ、そういうことだと思うんです。ね。はぁ、これは、神様が、一段と信心の飛躍を求めておられる時だと、気付かせていただいて、飛躍する気になった。飛躍する心になった。海外旅行を思い立った。ね。思い立ったら、もう、思い立っただけで、そういう心になった途端に、もうレストランでままになるおかげを受けておるという事なんですよ。ね。これが、根肥しにならないはずがない。ね。地が肥えないはずがない。ね。そこを、今、合楽では、ね。心行と言っております。形の行を持ってです、ね。どうでもおかげを頂かんならんからと言うて、形の行をさせていただいてもです。なるほどそれは、ね。地団太踏むようにしておすがりをする。さぁ、水を掛かったり、断食をしたりしてお願いをするからです。まぁ、神様が、しようことなしにおかげを下さるかも知れません。だから、それで、鬼の首を取ったようにして、はぁ、こういう事は、こういう信心すりゃ、おかげは頂けれると思う思い方は間違いです。もうその次には、そういう信心では、おかげは受けられない。ね。そういう決まりのようなものがです、あるんです。そら、まさかの時には、そういう信心もまた、全然いけないことじゃないけれども、一番、素晴らしいことは、心を肥やすことに努めること以外にはありません。それを、心行と、合楽では、今、言っているわけです。自分の我情を取る、自分の思いを捨てるということ。このくらい楽な、素晴らしい境地はありません。そこには、なるほど、なるほど神徳の中に生かされてあるんだなというです。もうそういう立身、一心発起と言うですか、ひとつ、飛躍しようと思うた途端に、もうすでに、ままになるおかげが、そこに現れておるということです。
心行を本気で取り組みませんとね、信心は進みませんよ。勿論、豊かにもなれません。おかげも豊かになりません。ね。いうならば、心行の材料、根肥しの材料はもう、日々、幾らもあるはずです。それを、しだごだにしたんでは、ね。それこそ、しだごだになります。死田ということは、もう、肥しも何も切れた田、死んだ田ということでしょう。そこに、幾ら良い種を蒔いても、良か芽は出ません。ごだということは、ね。業を作るという事です。ね。巡りの受け物では、おかげになりません。いうならば、汚い受け物では、せっかくの良いおかげが汚れます。様なもんです。ね。お互い、しだごだな信心ではいけません。ね。おかげがしだごだになります。本気で心行に取り組まなきゃいけません。心行の、いうならば、とは、自分の心を肥やすこと。とかく信心は地を肥やせ。とかく信心は、心を肥やせ。さぁ、今日も、どういう、嫌な問題、汚い問題があっても、それを、心の根肥しにさせて頂こうと、一段、飛躍させていただこうとする信心意欲に燃えての日々でなからなければいけません。ね。そこから、自ずと心は豊かになります。豊かは、いよいよ、豊かな心、同時に、大きくなれる。だから、大きなおかげが、ね。言うなら、ひとりでに物が出来るようなおかげが現れてくるのです。もう、信心のね、眼目というか、楽しみというか、有難さというのは、ここだと思うです。自分の心が、いよいよ、豊かになっていくことを楽しみの信心でなからにゃいけませんね。どうぞ。